崇徳上皇ゆかりの地を巡って 


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    NHK大河ドラマ「平清盛」の崇徳上皇の終焉の地

    保元の乱が終わり、崇徳上皇は流罪と決します。

    その配流の地は、私が住んでいる香川県(讃岐の国)でした。
    隣の市になりますが、坂出市に流されて来ました。

    一番最初に上皇が上陸した松山津、それから雲井御所に木の丸殿、崩御なされ埋葬された白峰寺の天皇陵、二条天皇が崇徳上皇の御霊を慰める為に建立した「白峯宮」までご案内致します。

    約八年間の流罪生活の基盤を嫁ハンと共に訪ねる事にしました。

    嫁ハンと一緒に訪れた時は案内説明に一生懸命になって写真を撮って居ませんでした。
    改めて訪れる機会を作って写真を撮影してきました。






    「松山津;まつやまのつ」です。


    五色台と云う山の西側に在る小さな山の麓に、その松山津が在ります。
    保元元年(1156年)7月に、讃岐の地に流された崇徳上皇は松山津に上陸しました。


    その地点と思われる所には、石碑が建っています。
    「浜ちどり 跡はみやこへ 
      かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく」


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    現在の海岸線からはだいぶ陸地奥になっていますが、当時はこの辺りが海だったと考えられています。







    その証拠に、平清盛から直ぐ後の世に起きた「屋嶋 壇ノ浦の戦い(関門海峡の壇ノ浦海戦のちょっと前)」では、現在は陸地になっている屋嶋はその名前の通り島でした。

    私の小説「浦島太郎って誰?」にも書いていますが、「縄文海進」縄文時代に海が現在より3mから5m近く海水面が高くなり、陸地奥まで海に迫られていた時代が有ります。

    その後の弥生時代には「弥生小海退」と云って、逆に海岸が後退し陸地が広がっていた時期もあります。

    この様に時代と共に、海岸線は海側に後退したり、陸地側に進んだりして、現在の海岸線になって居ます。
    地球温暖化が進めば「海進」、逆に地球冷却化になれば「海退」の自然現象が起きる事になります。







    雲井御所
    「ここもまた あらぬ雲井と
      なりにけり 空行く月の 影にまかせて」


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    綾川を挟んでその両岸のどちらかで、二年半ほど住まわれて居たと伝えられています。







    本来の雲井御所は、讃岐国府(現在の香川県庁)の司(現在の県知事)の住まい(官舎)だったそうで、上皇は住みづらかったと思います。




    私の小説「遥かなる大空」、「屋嶋の禿げとその兄達」、「浦島太郎って誰?」に登場する古代韓国式築城法に
    依って築城された「城山(讃岐城山城 さぬききやまのき)」の眼下に長命寺は建っていました。
    崇徳上皇の時代には既に城山は廃城で讃岐の国府もその存在を知りませんでした。


    もう一つは「長命寺」と呼ばれるお寺が雲井御所だったとも考えられています。
    こちらでしたら、司に流罪人として気を使うことなく、或る程度ノンビリと暮らせると思います。
    実際にここでは地域の武士達を御所に招いて、弓に興じていたと記録に残っています。
    と、云う事は・・・都ではまた争乱を起こそうとするのでは?と勘ぐられていたのでは?







    木の丸殿
    さて、配流の生活の殆どは「木の丸殿」と呼ばれる御所でした。
    そしてこの場所は、崇徳上皇を監視し易い讃岐国府の役所の直ぐ近くになります。


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    木の丸殿(擬古堂)は、現在の鼓岡神社で前方後円墳の後円部分に建てられていました。つまり墳丘(墓)の上に御所を建てた事になります。






    当時は丸太で出来たあばら屋らしく、決して高貴な王家の方が住まわれる様な建物では無かったようです。
    ここでは、毎日写経に勤しみ、出来上がった写経を都に送り届けましたが、何の呪いが込められているか判らないと云う理由で突き返されてしまいます。
    崇徳上皇はいたく落ち込まれたとの事でした。

    静かに毎日を送られていた上皇の耳にホトトギスの鳴き声が・・・。
    「啼けば聞く 聞けば都の 
      恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」

    上皇がこの歌を詠まれたのを聞いた周辺の民が、「上皇様を悲しませるホトトギス!」と思い込んでホトトギスを追い払ったり殺したりしたそうです。その為に「ホトトギス塚」もこの近くに在ります。

    私も含めて、崇徳上皇は決して日本最大最強の怨霊ではなく、地元の讃岐の民達にも慕われていた方だと思って居ますし、現に坂出市の皆様は今なお上皇を尊敬しているそうです。


    ただ先程の国府は鼓岡の墳丘の直ぐ眼下に在りました。








    要は雲井御所で司の居無い間、何をしているか判らないので、監視の目が行き届く国府の近くに引っ越しをさせられた事になります。

    説明から脱線してしまいますが、九州の太宰府天満宮に祭られてる天神さん「菅原道真 公」は、九州の太宰府へ左遷される前に、この讃岐の国の国府の長官として赴任して居ました。
    彼は水不足を解消する為の灌漑事業に熱心だったので、讃岐の農民達からは慕われて、今なお彼を偲ぶ行事が行われてます。
    彼もまた死後に強大な怨霊となって、参議達が宮中の清涼殿で会議をしてる時に、水平落雷で参議を内臓破裂で殺したり、干ばつを起こしたり等の災いを起こしたので、帝は慌てて彼を神として祭ったそうです。

    脱線ついでにもう一つ・・・出雲大社の大国主命も大和朝廷に殺された後に、大国主命が起こした災いに恐れを抱いた朝廷が、慌てて彼を神にしたのが出雲大社で、参拝者の正面は三体の大和朝廷系の神が鎮座し、肝心の大国主命はその横で参拝者から見ると、右手奥で直角方向を向かされて居ます。
    要は大和朝廷は彼を神にしても、参拝されるのは大和の神にしたかったようです。
    日本人特有の「祟り信仰=御霊信仰」の典型的な例です。






    暗殺の地「柳田」・・・。


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    御覧のように、地域の方が花を手向けています。
    この様に香川県人の中讃地域の人は今も上皇を慕って居るのです。


    国府から、木の丸殿からもそれほど遠くない所で、都から送られて来た三木近安と云う武将に暗殺されたと記録に残っています。
    危険を察知成された上皇は、ここまで逃げて大きな木のうろの中に隠れたと言い伝えられて居ます。
    しかしその華麗な御衣装が池の水に映っていて武将三木近安に発見されて斬り殺されたとの事です。

    流人の上皇を監視する役人は居ても、身辺を警護する随身(ずいしん=近衛府の官人=雛人形に武者姿の人形)が随従していなかった様です。

    その関係で白峰寺や白峰宮では「三木」と云う姓の人は立ち入り禁止になっています。参拝なさる時はお気を付け下さい。







    野澤井(のざわい)
    暗殺されて都から勅使が到着するまで、真夏に崩御なさった上皇の玉体(遺体)が腐敗しないように「野澤井(のざわい)」と云う湧き水に浸して居ました。
    白峯宮の直ぐ裏手に有る泉です。


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    現在では八十場の泉として、この湧き水で冷やしたトコロテンが有名で、多くの人達が涼を求めて訪れています。
    付近は身の毛がよだつほどの冷気(霊気?)に満ちて、夏には本当に涼しく感じる所です。




    白峰の裾野へ葬送の列が辿り着いた頃、急に玉体を乗せた牛車が動かなくなってしまいました。
    どうしても動かないので、暫くの間その地に留まることに・・・。

    すると上皇の玉体を収めたお棺から血が滴って地面が血に染まっています。
    その現象が済むと、再び牛車が動く状態になったそうです。


    後の世にこの地に「血の宮」と云う神社が建立されました。



    「血の宮」での事があって、やっと葬送の列は順調に白峰を登って行きます。

    目的地は荼毘に付す予定地の「稚護が滝」。
    この滝の上流の土地で上皇は荼毘に付されたとの事です。


    余談ですが、この滝は大雨の時くらいしか滝になりません。
    年に数回だけ滝になった「稚護が滝」を観ることが出来ます。
    私の大好きな滝の一つです。









    左の道を下りると「下乗」の石碑が在って、昔はこれより先には乗り物(輿・馬・駕籠)に乗って行く事が出来ません。
    しかし現在は白峰寺の山門前に駐車場が在りますので、そこまで車で・・・。


    左の坂道を入って直ぐ左側に展望台が在ります。



    白峯寺
    四国八十八カ所第八十一番白峯寺 (白峰寺)です。


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    「?・・・どうして四国八十八カ所のお寺に?」と思われますよね?
    長寛二年(1164年)8月26日に、都から送り込まれた刺客に暗殺された上皇は、ここで葬られています。
    この札所は「崇徳天皇菩提所」で在ると同時に、この寺の西側に崇徳上皇の天皇陵が在るからです。
















    崇徳天皇陵
    奈良県や京都府、大阪府以外には、ここ崇徳上皇の天皇陵、下関市の幼帝安徳天皇陵、そして淡路島の南あわじ市の淳仁天皇陵にしかなく、大正天皇と昭和天皇が八王子市にその御陵が在るだけです。

    西行法師は大河ドラマ「平清盛」でも出てきますが、佐藤義清(のりきよ)が出家して西行法師になりました。
    和歌を通じて崇徳上皇とは親交が深く、上皇の崩御を深く悼み慰霊のためにこの地に訪れました。

    日本最大にして最強の怨霊となった崇徳上皇の霊を慰め鎮める為に西行法師が、この天皇陵に参って和歌を詠んで、

    「よしや君 昔の玉の 
      床とても かゝらん後は 何にかはせん」

      と崇徳上皇の御霊を慰めました。
    また、天皇陵に隣接する境内には頓証寺(とんしょうじ )と勅額門が鎮座しています。
    頓証寺と勅額門の建物は、流されて過ごした行宮(御所)を、死後にここに移築した事になっています。
    現在残っている建物は、火災で焼け落ちた為に高松藩主松平家が再建した建物です。


    この札所には、天皇陵、頓証寺、勅額門と遺跡が多く残っています。




    さて、もう一つの八十八カ所の札所に・・・・正確には本来の札所に向かいましょう。






    白峯宮:正確には四国八十八カ所の本来の札所。


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    ここは白峯宮の境内の中に、八十八カ所の札所が在ります。


    金華山 高照院 天皇寺・・・その寺名からも判ると思いますが、崇徳上皇とゆかりの有る寺です。
    元々は上皇の時代より以前から「摩尼珠院」として存在していましたが、上皇暗殺後に二条天皇より崇徳天皇社を建立し、上皇の荒ぶれた御霊を鎮めるように勅命が出されました。
    それ以後、明治維新後の神仏分離令(廃仏毀釈令)で、崇徳天皇社は白峯宮として残り、摩尼珠院は廃寺となり暫くして白峯宮の境内を間借りするように「金華山 高照院 天皇寺」が建立されました。

    蛇足ながら、京都の白峯神宮は幕末時代の孝明天皇が都に崇徳上皇の御霊を移すようにと徳川幕府に命じたが、その後に崩御なされて実現しなかったそうです。
    そこで明治天皇がご自身の即位の礼の前に勅使を讃岐の遣わせ、崇徳上皇の御霊を都に鎮座せしめたそうです。

    また昭和天皇も崇徳天皇八百年祭に勅使を讃岐の白峰御陵に勅使を遣わしたそうです。

    京都の白峯神宮の地主社として、その境内には精大明神(せいだいみょうじん)も祭られて居て、蹴鞠の守護神、「まり精大明神」とも言い、球技・スポーツ芸能上達の神と言われています。
    その関係で現在ではJリ−グのサッカー選手やバレー選手などもよく参拝しているそうです。



    現地を巡りながら、嫁ハンはドラマに登場する「崇徳上皇」を思い浮かべながら、
    「決して何も悪い事をしていないのに・・・こんなに酷い目に遭って可哀想なお方・・・。」
    と少し涙声になって感想を言っていました。
     


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